私、アメリカに住んでいた時、NCAAとかNBAのバスケットボールをかなり楽しんでいたんですが、ついに八村塁のような日本人プレーヤーがアメリカで大活躍する時代となり、喜びを爆発させております。
実は彼が日本から英語もできない状態でアメリカに渡ったころから注目してました。
がんばってたんですよ。以下記事参照。
才能とがんばりの甲斐あって、今じゃスターです。日本のメディアも書き立ててます。
日本人初のNBAドラフト一巡目ってところがやっぱりすごいんですが、同じ日本の血を引く方が、70年も前に偉業を成し遂げられていたんです。こちらの記事で知りました。
ワタル・ワット・ミサカさん。非白人で初めてNBAでプレイした方が、95歳で11月20日に亡くなっています。なんと、非白人初NBAプレーヤーは黒人じゃなくってアジア系、しかも日系人だったんですわ。
ミサカさんはユタ州オグデンで1923年に生まれました。ユタ大学に進んで1年目の1944年にNCAAトーナメント決勝で、ダートマス大学にオーバータイムの末42-40で勝利。自身も4点決めております。しかし、優勝パレードの時に母親から軍隊に召集されたことを知らされたそうです。軍では通訳として訓練され、広島・長崎に原爆が投下されたあとにアジアに派遣されたそうです。戦時中は反日感情から彼を守るため、日本人ではなく「ハワイアン」と紹介されていたということ。大変だったんでしょうね。
兵役を終えると、ユタ大学に戻り活躍し、当時アメリカバスケット協会(BAA)に所属していたニューヨーク・ニックスに指名されます。1949年にBAAが全米バスケットボール・リーグと合併し、NBAが発足。ミサカさんはニックスで3ゲームをプレイしております。ここで初の非白人NBAプレーヤーとなったわけですね。
その後ニックスから放出されたのですが、別チームのオファーを退け、エンジニアリングの学位を取ることを選びます。その後はエンジニアとして、父親として普通の人生を歩まれたとのことです。
ミサカさんは、特に「初」のプレーヤーを意識していたわけではなく、ただ「普通の日本人移民の息子」以上の誰かになりたかったのだと話しています。特にだれかより秀でていたということもないと自分を見ていたミサカさんは、ただただうまくなりたかったのだとか。「うまくなれば気持ちがいいもの。日系人で初めてNCAAの招待試合で優勝するぞ、みたいな考えは自分には全くなかった」と語っており、とにかくバスケットが好きだったんですね。
八村塁君も、今でも礼儀正しく謙虚な感じです。初の一巡目を意識せず、バスケットを楽しんで、その雄姿をファンに見せてほしいなと思うのでした。